どうも、学習欲が取り柄の読書屋、せいじ(@twi_sei_ji)です。
田舎では、出かける時にドアの鍵をかけない。
聞いたことありますよね。
鍵をかけなくても安心して出掛けられるのはなぜ?田舎の人はいい人だから?
実は全然違います。別に田舎のほうがいい人ってわけじゃありません。
山岸俊男先生の本を読んで、そうわかりました。めっちゃ面白かった。
どんな本か
この本、1999年、つまり20年以上前に書かれた本です。しかし、今の日本にドンズバでハマる内容。
最初の質問の答え、何だと思います?
まずヒント。この本の前書きに、こんなようなことが書かれています。
これまでの日本社会は信頼をあまり必要としなかった。関係の安定性が、そのなかで暮らす人々に安心を提供していたから。他人を信用できるかどうか、なんて考えなくて良かった。
そうです。田舎の例で言えば、お互いに全員知ってるから変なことはしにくい、ということなんですね。いくら鍵がかかってないからといって、地元で空き巣なんか働けば一発でバレる。そしたら、もうそこでは暮らせない。村を出ていくしかない。そんなの空き巣で少しばかりのお金を得たって、割に合わない。だから盗みを働く人がいない。
いい人だから盗みをしない、わけじゃないのです。心じゃなくて、仕組みで抑制されている。
これが、山岸先生のいう「安心」。いうならば、内部(心)じゃなくて、外部(仕組み)によって得られる保証。今までの日本は、これに頼るところが大きかった。さらに、本当は仕組みで保証されてるのに、心で保証されていると思い込んでいる。
しかし、現代の日本では、田舎でも鍵をかけないと心配になってきている。クルマや鉄道の発達で、よそ者が簡単に村に入れてしまう。均質で閉鎖的な社会を作ることで、「よそ者は信用出来ないけど、内輪なら裏切らない」を維持してきたけど、それが無理な世の中になってきた。それが「安心社会の終わり」。じゃ代わりに何を拠り所としていくのか。そういう本です。かなり面白い。
じゃどうすりゃいいのか
安心が終わるだけでは困るよ、つぎどうしたら良いか教えてくれないと。
…と思いますが、その道筋を示すのがこの本の本領です。
まずは心での保証だという認識を捨て、仕組みの保証だったのだと正しく理解すること。心の問題だと思ってると、道徳の授業とか、絆という言葉をやたらと振り回すとか、そういうことになっちゃいますから。
次に、自分で人を見抜く目を持つこと。この時おもしろいのが、「知らない人はまず疑う」人よりも、「まず信じる」人のほうが、人を見抜くチカラがあるという実験結果。人を見る目を持つってのは、疑うこととイコールじゃないんです。意外。
そんな話が順を追って進められ…
最後の最後に、見事な解決策があり、いまのSNS社会も悪くないね、と思わせてくれます。詳しくは本を読んで頂くとして、ひとことで言えば情報の信憑性と透明性です。
そう。情報を隠してしょーもない駆け引きを行い、多少の利益を得るよりも、オープンにしていったほうが、あなたも私も、ひいては社会全体がコストが低く済む。正直者のほうがどんどん物事を進められる時代がやってきた、ということです。
なんでも疑うってのは、無駄なエネルギーなんですよ。
僕らひとりひとりはどうふるまうのか
ここからはかなり、私独自の解釈になりますが…
社会全体は透明性を高めていくとして、僕らは日ごろ、どうして行けばいいのか。
極端な言いかたをすれば「基本的に信じる」ということなのかなと私は理解しています。
何を信じるのか。
「相手だって同じ人間だ。どこかで理解できるはずだ。」ということを信じるのが良いだろうと思っています。ひどいニュースとかを見ると、それを起こした犯人なんか、どうしても「自分の理解からかけ離れた人」と考えがちです。
でも、そう思ったとたんに何でも信じられなくなる。分からない、と信じられない ってけっこう近いんじゃないのかな。だから分からないと決めつけないことが大事。
どこかで分かるはずだ、と思って相手を見れば、信じる時・信じない時ってのが見えてくる。例えば「良い人だけど時間は守らない」とか。「嫌な人だけど約束したことは必ず実行する」とか。そういう知恵が溜まると、人を見抜く目が養われることにつながる。
情報の透明性と、人を見る目を以て、自分で判断し相手を信頼する。また、自分が信頼されることで余計な手間が省けて、生産性が上がる。それが信頼社会。
世界は開かれる一方なのだから、そっちへ行くしかないのです。なかなかいい社会じゃないかな。
この本、おすすめです。
photo by いらすとや