これは・・・良い本を読みました。なんか読書に留まらない、良い体験をさせてもらった、という感じ。
どういう本か
まあ、タイトルの通りです。盲目の白鳥さんという方と一緒に、著者が美術館へ行ってアート鑑賞をする話。
しかし、これがめちゃ深い!!
当然、盲目の方なので、作品について説明しながら鑑賞して回るわけです。で、その過程自体がとても面白く、気付きに満ちている。
アート、特に現代アート自体がまあ、問題提起というか、「何が言いたいか一目では分からないものを、いろいろと考えを巡らせて楽しむ」ものではありますね。(一般的にそうかはわかりません。私はぜんぜんアートがわからないので、そうやって自分で勝手に意味を付けて楽しむことが多いですが。)
もともと考えさせられるものであるアート。それを、自分ではない他者へ作品を説明しようとすることで、見たままを言語化して伝える。見たままとは言いながら、自然と自分の解釈が入ってしまう。その絵には何が書いてあるのか。その彫刻は何の形をしているのか。言語化する以上、伝える人の解釈がどうしても入ってしまいます。
そうすると、「なぜそう解釈したのか?」と問い直されることになる。説明する相手にも、説明をした自分にも。
なぜそれをリンゴだと思ったのか?なぜそこに湖が書いてあると見えたのか?
これがむちゃくちゃ面白い体験になるわけです。アート鑑賞の深みも一気に増す。解釈が正しいかどうかは問題じゃない。
「読書で得られるもの」を超えている
で、それだけでもう、他にはない面白さの本なわけですが、この本はさらにエスカレートして行きます。
目の前のアート作品はもうなんだか、きっかけにすぎなくて、鑑賞と説明を繰り返すうちに筆者の持つ問題意識がどんどん、深いものになっていくのです。障害とは何か、とか、表現とは何か、とか、なんかそういう深さへ自然と踏み込んでいきます。
こんな本はちょっと、ないですよ。普通、ビジネス本ってのは、主張したいことがあって、それの裏付けが順を追って並べてあるものですよね。
この本は、なんか、読みながらすごい物を受け取る感じなんです。筆者の主張なんて小さいもんじゃない。まあ、ビジネス書じゃないから比べるのもおかしいですけど、それにしても。障碍者への理解を深めるとか、そんなつもりで読んだのですが、もっともっと壮大なテーマが横たわっていた。
障害を個性と捉える とか、聞いたことありますよね。今までも頭では理解していたけど、この本を読むと、本当の意味でそれが実感できる という感じです。べき論とかモラル・良識とかじゃなくて、「ものの感じ方はひとそれぞれだよね」っていうぐらい自然な、日常的な感覚で理解できる。
うまく言えませんけど、普通の本の読書で得られるものとは、ちょっと違います。
「インドへ行くと人生観変わる」ってよく言われたものですが、海外に行って全く異なる価値観に触れたショックに近いかも。この本。
表現とは、コミュニケーションとは
それで突然思い出したのですが、フリッパーズギターの曲に、こんなフレーズがあります。
わかり合えやしない、ってことだけを、わかりあうのさ
Camera Full of Kisses
結局、他者を完全に理解することなんて、できないわけです。相手が、盲目であろうと、健常者であろうと。
だからこそ僕らはお互いコミュニケーションを取るのであって、アート、あるいは私のこんな文章含めすべての表現は、実は、ただのコミュニケーションのひとつなんじゃないか。そんなことを思います。
ビジネスの文脈では、コミュニケーションとは、意見をすり合わせたり、間違いをつぶしたり、ゴールに向かって一直線なのですが、それってコミュニケーションのごく一部でしかない。
コミュニケーションってのはやっぱり、双方向に影響しあうことで、自分一人ではたどり着けなかったところへたどり着ける、すごく面白い活動なのだ、ということですね。相互乗り入れの活動。
というわけで多様性はまじで大事
そう考えてくると、いままで教科書的に理解してきた「多様性って大事」とか「ダイバーシティ&インクルージョン」みたいな話が、肌感を伴って必要な気がしてくるのです。
いろんな人がいて、その人たちとコミュニケーションするから、様々な価値あることを思いつく。
こりゃ、同質な人で固めるとかヤバいでしょ。なんにも進歩がなくなりますよ。それじゃイノベーションなんて起きるわけがない。
難しいけれど、多様な人に対し、お互いに敬意を持って、知ろうとして接することが大事。オープンマインドで。するとすごく得られるものがある。なぜならこの世のすべては、外と内のフィードバックループだから。自分の外と関わることで、自分の内に気づくものがある。それを形にして出して、また誰かが何か気づく。
そういう連鎖の一部になりたいですねえ。断ち切る側じゃなくて。